アブラムは主を信じた
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(創世記15:6)
この一節は、聖書全体がかかってくる重要なことばだ。
パウロが「信仰による義」の論証に引用しなければ、ほとんど忘れられていたかもしれない。
これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨んだ。「アブラムよ、恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたへの報いは非常に大きい。」(1)
「わたしはあなたの盾である」。
なんという力強い励ましの言葉だろうか。
きょう、新しくわたしたちも、自分へのことばとして受け取ろうではないか。
「わたしはあなたの盾である」。
アブラムは言った。「神、主よ、あなたは私に何を下さるのですか。私は子がないままで死のうとしています。私の家の相続人は、ダマスコのエリエゼルなのでしょうか。」(2)
「報いは非常に大きい」と言われて、何を下さるのだろうとアブラムは思った。
そして最も気にかかっていた「子がないまま」であることを問うた。
アブラムはノアから数えて11代目だが、その間に、各地に急速な勢いで社会が形成されていった。
その理由として、人々が長寿であったことと、多産であったことがある。
したがって、「子がない」ことは大きな気がかりであったと想像される。
そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」(5)
満天の星を見せながら約束を与えるとは、主は粋なことをされる。
これに対するアブラムの態度が、6節のみことばだ。
アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。(6)
星空を見上げながら、彼は主の約束をしっかりと受け止めた。
これまでさんざん祈って実現しなかったことも、主が約束されたのだからかならず成ると信じた。
それが「彼の義と認められた」。
その後アブラムはイサクを与えられ、そこからイスラエル民族が星のように広がった。
それだけでなく、「信仰の父」として、キリストをとおして神を信じるすべての人の父となったのだ。
「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。(ガラテヤ3:6-7)