あなたが神を恐れていることがよく分かった
御使いは言われた。「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。今わたしは、あなたが神を恐れていることがよく分かった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しむことがなかった。」(創世記22:12)
ひとり子イサクを「全焼のささげ物」として献げよというとうてい理解できない命令に、アブラハムは直ちにしたがった。
翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、二人の若い者と一緒に息子イサクを連れて行った。(3)
いろいろ言いたいことはあったはずだ。
子孫繁栄の約束はどうなるのか、せっかく与えられたひとり子をなぜ殺さねばならぬのか、妻や周りの者たちはどう思うか、義なる神がなぜこのようなことを命じるのか。
しかし、聖書の記述を見るかぎり、アブラハムはただ黙々と従っている。
アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。(10)
心の中ではもう「屠って」いる。
その従順を見て、ギリギリのところで御使いが止めた。
御使いは、「あなたが神を恐れていることが」分かったと言っている。
また、こうも語っている。
「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」(18)
これらのことから、つぎのように言える。
神を信じるとは、神を恐れることであり、神に聞き従うことである。
「信じます」と口で言うことは、信仰の証明にはならないのだ。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブ2:21-23)