砕かれた心
神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:17)
昨今、「自己肯定感」の大切さが声高に語られる。
自分は価値がある、素晴らしい存在だと信じる心は、人が健やかに成長する上で、たしかに大切なものだろう。
しかし、その根拠は何だろうか。
自分はすごいんだ、素晴らしいんだというのは、少し違う気がする。
「自己肯定感」の確かな根拠は、神の愛にあると、わたしは思う。
聖書は、一人ひとりは神によって愛されており、神の目に高価で尊い、と教えている。
と同時に、一人ひとりの内側には、神への敵対という恐ろしい闇があり、一人残らず神からさばかれるべき“罪人”だと言っているのだ。
自分の恐るべき罪に光が与えられ、心から打ち砕かれるとき、不思議なことに、わたしたちは最も神に近づく。
神の愛無しの「自己肯定感」は、人を救いから遠ざけ、誤った自己認識に陥らせる。
ダビデは、自分の罪を知らされたとき、最も神に近づいた。
神よ、私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。私の咎を、私からすっかり洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。(1-2)
聖書は、人間を立派にする書物ではない。
打ち砕き、神に引き寄せる書物だ。
ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなります。(7)
人はいくら自分を磨いても、きよくなり得ない。
ただ主のあわれみによって、きよめていただくほかない。
それは、あわれな罪人として、砕かれた心をもって、神に近づく人だけになされることだ。
どれほど多くの人が、この51篇によって神に近づいたことだろう。
ペテロもそうだったに違いない。
ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。(マタイ26:75)
パウロもそうだ。
彼は三日間、目が見えず、食べることも飲むこともしなかった。(使徒9:9)
心砕かれるのは、つらいことだ。
しかし、そのとき、喜びが満ちてくる。
日々、砕かれた心で、主の前にへりくだって歩みたい。
「一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神様、罪人の私をあわれんでください。』」あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(ルカ18:13-14)