自分の道を正しくする人に
「自分の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せる。」(詩篇50:23)
50篇は、天地の審判者としての神のことばだ。
神は上なる天を、また地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。(4)
天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。(6)
内容は、
- 「敬虔な者」(5)へのことば
- 「悪しき者」(16)へのことば
の二つに分かれている。
1.「敬虔な者」に
「聞け、わが民よ。わたしは語ろう。・・・あなたのいけにえのことであなたを責めるのではない。あなたの全焼のささげ者は、いつもわたしの前にある。」(7-8)
神は「森のすべての獣はわたしのもの」(10)とし、それらのささげ物を求めているのではない、と語る。
「感謝のいけにえを神に献げよ。」(14)
神が求めておられるのは「感謝のいけにえ」だ。
それは神がお喜びになるだけでなく、わたしたちを内側から元気にする。
ああ、私のなんと感謝の少ないことだろう。
身の回りの小さなことも、ひとつひとつ挙げて、感謝する時間を持とう。
「苦難の日に、わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し、あなたはわたしをあがめる。」(15)
神が求めておられるのは、わたしたちが強くなることではなく、神を呼び求めることだ。
立派になれと言われたら戸惑うが、「わたしを呼び求めよ」ならできるのではないか。
ありがたいことだ。
2.「悪しき者」に
「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、わたしの契約を口にするとは。」(16)
ここからのことばは、非常に厳しい。
「悪しき者」は、神を神と思わず、ないがしろにしている者、ではない。
神のおきて、神の契約について語っている者なのだ。
神のことばを語りながら、彼は「姦通する者と親しく」し(18)、「口は悪を放ち」(19)、「兄弟の悪口を言」う(20)。
「こういうことをおまえはしてきたが、わたしは黙っていた。わたしがおまえと等しい者だと、おまえは思っていたのだ。わたしはおまえを責める。おまえの目の前でこれらのことを並べ立てる。」(21)
神を侮ることは、神を自分と変わらない者とすることだ。
実に恐ろしいことだが、いつの間にか、そういう者になっている自分がある。
「神を忘れる者どもよ、さあ、このことをよくわきまえよ。そうでないと、わたしはおまえたちを引き裂き、救い出す者もいなくなる。」(22)
神から見捨てられたら、終わりだ。
神はいつまでも侮られたままではおられない。
最後に、救いの道が示される。
「感謝のいけにえを献げる者は、わたしをあがめる。自分の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せる。」(23)
「神の救い」を見たいとは思わないだろうか。
それならば、「自分の道を正しくする」しかない。
そうすれば、「神の救いを見せる」と約束されている。
いま一度、居ずまいを正し、神の御前にへりくだろう。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。・・・失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(ガラテヤ6:7・9)