神の教えを飾る
奴隷には、あらゆる点で自分の主人に従って、喜ばれる者となるようにし、口答えせず、盗んだりせず、いつも善良で信頼できることを示すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆる点で、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。(テトス2:9-10)
「クリスチャンになると、酒やめないといけないんでしょ。馬鹿騒ぎもできないだろうし、だいたいそんな品行方正にはなれませんよ」
ノンクリスチャンの人は、クリスチャンをそんなふうに見ているかもしれない。
これに対しクリスチャンは、「いいえ、そんなことはないですよ。神様は、どうしようもない罪人の私たちを、そのままで愛してくださるのです」と答えることが多いように思う。
もちろんそのとおりなのだが、なんだか釈然としない。
神は罪人を愛してくださるが、罪の中にとどまり続けることを願ってはおられないからだ。
刹那的な楽しみで人生の虚しさを紛らわすような、そういう姿のままでいいとは思っておられない。
聖書ははっきりと、神に喜ばれる良い生き方に変わるよう告げている。
上のみことばでは、それは「神の教えを飾る」生き方だと言われている。
そうしなければいけないのではなく、神の愛を知るほど、そうしたくなるのだ。
主に喜ばれる者となりたい、この汚れた自分をきよめていただきたいと、切に願うようになる。
わたしの日々の言葉は、思いは、態度は、「神の教えを飾る」ものであるだろうか?
また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。(8)
主よ。
わたしの一挙手一投足を、きよめてください。
心を、言葉を、態度を、「神の教えを飾る」ものとしてください。
アーメン。
キリストは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心な選びの民をご自分のものとしてきよめるため、私たちのためにご自分を献げられたのです。(14)
あなたがたの飾りは、髪を編んだり金の飾りを付けたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。(1ペテロ3:3-4)