服し、従い
あなたは人々に注意を与えて、その人々が、支配者たちと権威者たちに服し、従い、すべての良いわざを進んでする者となるようにしなさい。(テトス3:1)
以前ある方が、聖書の学びで、こう語られたのを覚えている。
「現代人が忘れている言葉の一つは、“従順”ではないだろうか」
言われてみれば、そうだ。
いかに幸せになるかという本はあまたあっても、そこで「従順」が説かれることはまずない。
むしろ、「自分らしく」「自分の好きなこと」「自分の人生」「自分の時間」といった言葉が、声高に語られている。
だれかに「服し、従う」のは、自分を無にしなければできることではない。
そしてそれは、現代人が一番嫌う生き方と言えるかもしれない。
パウロは、続ける。
また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。(2)
先頃、トルストイの名作『イワンのばか』を久しぶりに読み返して、大いに感銘を受けた。
悪魔がイワンとその民衆を惑わそうとするが、軍に攻め入らせても「いっしょに暮せばいい」と言い、「なんのために、わしらをいじめるのかね?」と泣くばかりなので、兵士もイヤになってやめてしまう。
ならばと金貨をばらまいても、首飾りや子どものおもちゃにしてしまう。
あげくには、「手を使わずに頭で働く方法」を直々に教えようとするが、彼が演説をぶつばかりで「口」しか動かしていないのを見て、誰も見向きもしなくなる。
現代の世相を見抜いたような話で、大変おもしろかった。
トルストイは、この作品でキリスト教的精神を描いたわけだが、まさにここに出てくる人たちは天国の住民のようだ。
私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。(3)
悪魔は、いまも執拗に働きかけ、わたしたちをこのような状況へと誘い込もうとしている。
実際、罪の性質を持つわたしたちは、聖霊に満たされることがなければ、途端にこの落とし穴にはまってしまう。
神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。(5-6)
わたしたちには、聖霊が“豊かに”注がれている。
そのことを信じて、自分を押し通すのではなく、主の御旨にかなった歩みをする者となろう。
このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)