みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

愛のゆえに懇願します

ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。(ピレモン8-10)

 

『ピレモンへの手紙』は、パウロの書簡の中でも異色だ。

内容が非常に個人的で、かつ短い。

しかし、実に味わい深いものがある。

 

ピレモンは家を教会のために解放していたが(2)、彼に仕える奴隷オネシモが物を盗んで逃亡した。

逃亡先でオネシモはパウロと出合って福音を聞き、回心する。(10)

役に立つ者となったオネシモを(11)、兄弟として受け入れるように(16)、彼への請求は私パウロにするように(18)、とそんな内容だ。

 

パウロは手紙の中で、自分がピレモンに命じる権利があることや(8)、ピレモンが自分に負債を負っていることに言及している。(19)

 

パウロが自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで私にもっと負債があることは、言わないことにします。(19)

 

なんだか、パウロ流のユーモアのように見える。

手紙を読んだピレモンは、喜びながら、「パウロさんも仕方がないなあ」と微笑んだのではなかろうか。

そこには、師弟間の麗しい愛と信頼の関係が垣間見える。

 

パウロは、冒頭の句で、「命じることもできるのですが、むしろ愛のゆえに懇願します」と言っている。

これは、神ご自身のあり方でもある。

神は絶対者として権力を振るい強制的に命じることができるはずなのに、そうはされない。

むしろ、「愛のゆえに懇願」されるのだ。

 

しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。(14)

 

「命令」ではなく、わたしを愛しておられるからこその「切なる願い」だと知れば、わたしの態度はどう変わるだろうか?

 

私はあなたの従順を確信して書いています。私が言う以上のことまで、あなたはしてくださると、分かっています。(21)

 

「命令」として受けるなら、言われたことだけ満たせばそれで終わりとなる。

しかもその場合、主の要求をほんとうには満たすことができない。

 

「愛のゆえの懇願」として受けるとき、満たして余りあるほどに、主がしてくださる。

そしてそこにはきっと、麗しい関係が成り立っているのだ。

 

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ2:10)

 

 

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