神が祝福されたのだ
「見よ、私は、祝福せよとの命を受けた。神が祝福されたのだ。私はそれをくつがえすことはできない。」(民数記23:20)
バラムはバラクに連れ出されてバモテ・バアルに上り、イスラエルの民の一部を見た。
そこでバラクは祭壇を作っていけにえを献げ、バラムがイスラエルを呪うのを待った。
ところが、バラムはこう語った。
「私はどうして呪いをかけられるだろうか。神が呪いをかけない者に。私はどうして責めることができるだろうか。主が責めない者を。」(8)
バラムは、イスラエルを呪うどころか、祝福した。
バラクは彼に言った。「では、私と一緒に彼らを見ることができる別の場所へ行ってください。・・・そこから私のために彼らに呪いをかけてください。」(13)
ピスガの頂に連れて行かれたバラムは、そこでも冒頭のとおり、再びイスラエルを祝福した。
さらにバラクは食い下がる。
バラクはバラムに言った。「では、私はあなたを、もう一つ別の場所へ連れて行きましょう。もしかしたら、それが神の御目にかなって、あなたは私のために、そこから彼らに呪いをかけることができるかもしれません。」(27)
次章では、結局この三度目もイスラエルは祝福されることになる。
そしてバラクは、バラムに対して怒りを燃やす。
バラクの態度は、次のようなものだった。
- 神の祝福を金で買おうとした
- 神に祝福を祈り求めるのでなく、命令した
- はじめから自分の意向があり、神に対して聞く耳はない
この中でも、特に3.については、わたしたちもまた、よくよく注意しなければならないと思う。
例えば、誰かに相談を持ちかけるとする。
そのとき、たいていは、自分の意に添う答えを言ってくれそうな人を選ばないだろうか。
意に添わない答えの場合は、バラクのように、あの人、この人と渡り歩き、“相談ジプシー”となる。
こういうことは、よくあることだ。
「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)
この態度にこそ真の自由があることを、キリスト者は知っている。
きょう新たに、イエスさまに倣おう。
みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2-4)