みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

祭壇奉献のためのささげ物

「祭壇に油注ぎが行われた日に、族長たちは祭壇奉献のためのささげ物を献げた。」(民数記7:10)

 

7章は、幕屋が完成したときのようすを記している。

 

モーセは幕屋を設営し終えた日に、これに油注ぎをして、聖別した。そのすべての器具と、祭壇およびそのすべての用具にもそうした。(1)

 

この「幕屋を設営し終えた日」とは、出エジプトから「第二年目の第一月の第一日」ということだ。

イスラエルの族長たちは、まずレビ人たちが幕屋の移動の際に使用する台車6台と雄牛12頭を献げた。

 

おもに幕屋の幕関連のものを運ぶゲルション族には台車2台と雄牛4頭、板や横木や柱など重量物を運ぶメラリ族には台車4台と雄牛8頭が与えられた。

あかしの箱など「最も聖なるもの」を運ぶケハテ族は、担ぎ棒でかつぐので与えられなかった。

 

のちにダビデの集団がこの箱を運んだ際は牛に背負わせており、そのためよろけて落ちそうになり、思わず手で押さえたウザがその場で死んだ。

それほど幕屋の移動は慎重さを要するものだったのだ。

 

族長たちは、その後一日ごとに同じささげ物を献げた。

したがって12日間かけて、同じものを献げたことになる。

ささげ物は、銀の皿や鉢、小麦粉、金のひしゃく、雄牛、雄羊、雄やぎなど、かなりの量だ。

 

興味深いのは、「われ先に」と主張する者もなく、「うちはもっと多く」と出し抜く者もなく、整然と、平和のうちに行われていることだ。

自分たちを導かれる主がともにいてくださる、この喜びが彼らに満ちていたのではないだろうか。

 

最終的に、神はこれらを受け入れられた。

 

モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「宥めの蓋」の上から、すなわち二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。(89)

 

主が中心になられるとき、真の平和が訪れる。

 

しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。・・・しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。(1コリント12:18・20)

 

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