頂が天に届く塔を建てて
彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」(創世記11:4)
11章で、有名な「バベルの塔」の話が出てくる。
さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。(1)
この時代で、すでにかなり広い範囲に人々が移り住んでいたが、それでも言葉は共通だった。
何語だろう?
それはともかく、社会の形成とともに、さまざまな技術も発展したことが伺える。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。(3)
より丈夫で効率の良い資材を作るようになっていた。
技術革命だ。
それは良いのだが、そのあとがいけなかった。
「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。」(4)
この言葉の中に、人間の罪の性質がはっきりと現れている。
まず彼らは、「自分たちのために」建てた。
「主のため」ではなく、「自分たちのため」が真っ先にくる。
次に、「頂が天に届く塔」を建てた。
その根底にあるのは、人間の自負心と神への挑戦だ。
“下から上”という方向性が、罪の本質だ。
自分を磨こう、自分を高めよう、自分をすばらしいものにしよう・・・。
すべてが自分中心である。
第三に、「名をあげよう」として建てた。
「自分たちのために」とは、「自分たちの必要のために」というカムフラージュをしながら、その実、「自分たちの栄光のために」だったのだ。
常に自分が優先であり、自分を何者かに高めようとし、名をあげようとすること。
これが、神を見失った人間の姿だ。
そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」(6-7)
こうして塔の建設は中止され、世界の言葉が別々のものとなった。
おかげでわたしたちは、外国語の勉強に頭を痛めることになった。
私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、ただあなたの御名に、栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。(詩篇115:1)