わたしの虹を立てる
「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。」(創世記9:13)
虹が嫌いな人はいないだろう。
虹を見れば、大人も子どももだれもが歓声を上げる。
聖書の神を信じる者たちは、さらに特別な思いを馳せることができる。
それは、神がノアと交わされた「契約のしるし」として見るからだ。
まさに神と人との“架け橋”、それが虹だ。
「わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。」(14-15)
ここで注意が必要なのは、神は「大洪水」で滅ぼすことはしないと言っておられるのであって、違う方法による余地はあるということだ。
事実、新約聖書は、次は「火」によるさばきがあると告げている。
天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(2ペテロ3:5-7)
9章後半は、ノアと息子の失態についての記録だ。
彼(ノア)はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。(21-22)
二人の兄弟、セムとヤフェテは父の裸を見ようとせず、うしろ向きに歩いて行って、父に上着をかけた。
この事件により、ノアはハムにのろいの言葉を与えることになった。
彼は言った。「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように。」(25)
ハムが最初に父の裸を目にしたのは、偶発的なできごとだっただろう。
その時点では、彼の罪とはならなかったはずだ。
ところがハムは、それを興味本位に見、面白半分で兄たちに誘いかけたと思われる。
「おい、来てみなよ。お父さんが真っ裸で寝てるぞ」と。
罪にはこのように、侮り、からかい、馬鹿にする態度が含まれている。
これらはともすれば、自分の中にもかんたんに芽を出す。
人を侮り、からかい、馬鹿にしてはいないか、常に注意を払う必要がある。
ノアは大洪水の後、三百五十年生きた。ノアの全生涯は九百五十年であった。こうして彼は死んだ。(29)