みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたはどこにいるのか

神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」(創世記3:9)

 

3章は、聖書全体のなかでも特に重要な章のひとつだ。

人間がいかに罪に堕ちたか、その過程が克明に描かれている。

1節ごとが、非常に不思議で意味深い内容だ。

 

さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」(1)

 

神が「善悪の知識の木からは、食べてはならない」とアダムに命じたのは、まだエバが造られる前のことだった。(創世記1:17)

つまり、神から言葉を直接受けたのはアダムであり、エバはアダムから伝え聞いただけだったろう。

そのエバに悪魔は誘惑の手を伸ばしたのだ。

なんと巧妙なことか。

 

しかも神が言ってもいない言葉をでっち上げ、「本当に言われたのか」と神のことばに対する疑念のしずくをそっと落とした。

無邪気に答えるエバに、悪魔は追い打ちをかける。

 

すると、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(5)

 

悪魔は神の言葉を否定した挙句、神はあなたたちが神のようになるのがイヤなのだ、あなたたちを支配下に置いておきたいのだと、今度は神の愛への疑念を注いだ。

 

そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(6)

 

女はそれまでにも「善悪の知識の木」を見ていたはずであり、そのときは何とも思わなかった。

ところがいまや、神の愛への疑いを抱きながら見ると、非常に魅力的に見えたのだ。

“罪”というものの背すじが凍るような恐ろしさを覚える。

 

二人は神の「御顔を避けて」隠れた。(8)

これが人の本質となってしまった。

神を慕い求めるのではなく、神からより遠く離れ、神と関係を持たない生き方を選ぶようになったのだ。

 

神である主は、人に呼びかけ、彼に言われた。「あなたはどこにいるのか。」(9)

 

そんなときでも、神のほうからこう呼びかけられた。

人が罪に堕ちて、最初にかけられた御声が、「あなたはどこにいるのか」だ。

「あなたは何をしたのか」ではないことに注意しよう。

 

人にとってもっとも重大な問いは、「何をするのか」ではなく、「どこにいるのか」である。

すなわち、「どう生きるべきか」ではなく、「どこで生きるべきか」だ。

神の御顔を仰ぐ光の中で生きるのか、神の御顔を避けて生きるのか。

 

聖書全体が問題にしているのは、結局、この一点ではないだろうか。

それはいのちと死の問題であり、光と闇の問題である。

 

アダムとエバは、肉体的には死ななかったが、霊的な意味において罪の中に死んだ。

そして、全人類がその子孫である。

 

「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」(15)

 

 

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