ああ、人を喜ばせる愛よ
ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。(雅歌7:6)
7章では、「あの方」がまたも娘のからだの美しさを褒めちぎる。
なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。ほぞは丸い杯。混ぜ合わせたぶどう酒は尽きない。腹は小麦色の山。ゆりの花で囲まれている。二つの乳房は、二匹の子鹿、双子のかもしかのようだ。(1-3)
4章でも、同じように褒めたたえていた。
思わず、「もう、わかった、わかった」とでも言いたくなるくらい、何度も褒めている。
どうだろう。
主もまた、わたしたち一人ひとりに対し、何度も何度も褒めちぎっておられると考えられないだろうか。
それほどの熱い真実な愛で、愛してくださっていると。
主は言われるかもしれない。
「これほどに、『あなたは美しい、あなたを愛している』と言っているのに、なぜ信じないのか」と。
ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。(6)
「あの方」は、娘を「なつめ椰子の木」にたとえて、次にように言う。
私は言った。「なつめ椰子の木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香りはりんごのようであれ。あなたの口は最良のぶどう酒のようであれ。」(8-9)
このあたりは直接的で性愛的な言葉が続く。
以下は、娘の告白だ。
さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。・・・恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。(11・13)
「恋なすび」は、当時の性欲高進剤だ。
男女の性愛が、高貴な愛の姿として示されている。
性愛は、ともすれば非常に卑しいものとして捉えられがちだ。
しかし聖書は、それをとても貴いものとして描いている。
それどころか、「奥義」だと言っている。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ5:31-32)
悪魔は、神の創造された秩序ある世界を、ある意味でひっくり返したといえる。
そこでは、貴いものが卑しいものに転換してしまった。
男女の性愛は、その最たるものだ。
主よ。
性愛について、神のみこころにかなった捉え方ができるよう、聖霊によってわたしの心をきよめてください。
アーメン。
「創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」(マルコ10:6-9)