私は、私の愛する方のもの
私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。(雅歌6:3)
ここまで見てきたように、雅歌における「あの方」と「娘」の関係は、主イエスとキリスト者の関係をあらわしている。
上のみことばも同様で、そのまま「私は主イエスのもの、主イエスは私のもの」と読み替えることができる。
パウロは、つぎのように書いた。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)
また、夫婦のあり方について、こう書いている。
妻は自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同じように、夫も自分のからだについて権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(1コリント7:4)
娘は、「え、権利がないのですか」などとケチなことは思いもしない。
喜んで、「私は、私の愛する方のもの」と告白している。
これに対し、「あの方」も最上級の愛で答える。
王妃は六十人、側女は八十人、おとめたちは数知れない。汚れのないひと、私の鳩はただ一人。(8-9)
幾多の女性のなかでも、私が特別に愛するひとはあなた一人だ、という。
なんという光栄だろうか。
世の、特に日本の、大半の人はイエス・キリストとは無関係に生きている。
わたしもかつてはそうであったが、いまは、この方無くして生きる意味も力も見出せない。
それは、この無数の人々のなかから、主イエスがわたしに目を留めてくださった恵みによる。
わたしたちもまた、娘の告白を、主イエスにささげよう。
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。(エペソ5:31-32)