みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

知恵は呼びかけないだろうか

知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか。(箴言8:1)

 

8章では、「知恵」が「わたし」という人称で語りかける。

これもまた、聞き手に強く印象づける工夫であろう。

 

「人々よ、わたしはあなたがたに呼びかける。人の子らに向かって声をあげる。」(4)

 

「わたしの口のことばはみな正しい。そこには、ねじれたことや曲がったことはない。」(8)

 

しだいに「わたし」は、より人間的な、人格を伴う表現で語りだす。

 

「わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれごとを言う口を憎む。」(13)

 

「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す。」(17)

 

圧巻は、22節からだ。

ここでは、はっきりと人格を持つ特別な存在として語りかける。

 

主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。(22-26)

 

つまり、神が万物を創造するよりも前に、「わたし」は存在したという。

そればかりか、万物を神と共に創造したと続く。

 

主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。(27-30)

 

この「わたし」は、明らかにイエス・キリストそのものである。

 

初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ1:1-3)

 

キリストは、父なる神とともに万物を創造された。

それは「喜び」であり、「楽しみ」であった。

さらに、こう言われている。

 

主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。(31)

 

この「人の子ら」のなかに、あなたも、わたしも入っている。

嬉しくなるではないか。

主は、わたしを母の胎に組み立てながら、喜び、楽しまれたのだ。

そのことを思いつつ、主を見上げよう。

 

幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。(34)

 

 

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