みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

自分の悟りに頼るな

心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と考えるな。主を恐れ、悪から遠ざかれ。(箴言3:5-7)

 

箴言』のなかでも、もっともよく知られた聖句と言っていいだろう。

 

心を尽くして主に依り頼め。

 

「心を尽くして」とは、徹頭徹尾ということだ。

 

「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マルコ12:30)

 

徹頭徹尾主に依り頼み、徹頭徹尾主を愛すること。

これが、聖書のいう“信仰”だ。

 

自分の悟りに頼るな。

 

なんとわたしは、「自分の悟り」に頼っていることだろう。

そして、考えてみれば、なんとそれは頼りないことだろう。

 

「自分の悟り」なるものは、今日と明日で、いや朝と夕で、かんたんに変わる。

そんなものに頼るのは、藁にすがるのに等しい。

 

自分を知恵のある者と考えるな。

 

ああ、自分が恥ずかしくなる。

自分を「知恵のある者」のように勘違いしている。

パウロのことばを、ほんとうには理解していない。

 

自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです。(1コリント8:2)

 

自分を知恵のある者と考えるのではなく、まことの知恵を持っておられる主に依り頼め。

主の知恵とは、どういうものか?

 

主は知恵をもって地の基を定め、英知をもって天を堅く立てられた。主の知識によって深淵は張り裂け、雲は露を滴らせる。(19-20)

 

わたしたちは、何かわからないことがあれば、その道の専門家に聞く。(もっとも最近テレビに乱立する“専門家”は、本物かどうかアヤしいが)

 

もし目の前に、天地万物を創造し、いまもすべてを生かし、驚くべき知恵をもって導いておられる方がいたら、どうだろうか。

自分のちっぽけな頭に頼るよりは、その方に頼るほうが賢明であることは言うまでもない。

 

心を尽くして主に依り頼め。自分の悟りに頼るな。

 

いま一度、胸に刻みたい。

 

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

 

 

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