みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

浅はかな者はみな、ここに来なさい

知恵は自分の家を建て、石の柱を七本、切り出し、いけにえを屠り、ぶどう酒を混ぜ合わせ、その食卓も整え、侍女たちにことづけて、町の最も高い所で呼びかけさせた。「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。(箴言9:1-4)

 

9章には、「浅はかな者はみな、ここに来なさい」ということばが二度出てくる。

ひとつは、上にあげた「知恵」からのことばだ。

これには、次のように続く。

 

また、良識のない者に言った。「さあ、わたしのパンを食べなさい。わたしが混ぜ合わせたぶどう酒を飲みなさい。浅はかさを捨てて、生きなさい。分別のある道を、まっすぐに歩みなさい」と。(4-6)

 

これらは「浅はかな者」「良識のない者」に向かって呼びかけられている。

 

もうひとつは、後半で「愚かな女」からのことばとして出てくる。

 

愚かな女は騒がしく、わきまえがなく、何も知らない。その女は自分の家の戸口に座り、町の高い所にある座に着き、道行く人々に呼びかけて言う。自分の道をまっすぐ歩く人々に。「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と。(13-16)

 

この「愚かな女」は、「知恵」のようにさまざまなものを備えてはいない。

「何も知らない」のだ。

「知恵」の侍女たちが「町の最も高い所」から呼びかけたのに対し、「愚かな女」はそれより低い「町の高い所」から呼びかけている。

「まっすぐ歩く人々」を邪魔するかのように。

 

さらに、こう続く。

 

また良識のない者に向かって、この女は言う。「盗んだ水は甘く、こっそり食べるパンはうまい」と。(17)

 

「良識のない者」に語られているのは、先と同じだ。

ただそのことばは、ねじれた誘惑だ。

 

しかし彼は、そこに死者の霊がいることを、その女の客がよみの深みにいることを、知らない。(18)

 

「知恵」のことばも、「愚かな女」のことばも、どちらも「良識のない者」に語られている点では同じだ。

つまり、わたしたちは、どう転んでもそういう者である。

自分を知者だと考えるなら、すでに「良識のない者」よりはるかに愚か者である。

 

主よ。

わたしは、あなたの導きなしに、全き道を歩み得ない良識のない者です。

どうか、その都度、主の道をわきまえる分別をお与えください。

ねじれた悪魔の誘惑を見抜く知恵を、お与えください。

自分はわかっている、大丈夫だと思い込む愚かさから守ってください。

真っ直ぐ歩むことができるようお守りください。

アーメン。

 

主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである。(10)

 

 

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