みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

この女は多くの者を切り倒し

この女は多くの者を切り倒し、殺された者は数えきれない。(箴言7:26)

 

昔、バイブルキャンプでのこと。

友人と聖書を開いて語り合っていたところに、U君が「何のみことばを話し合っているの?」と入って来た。

上のみことばを指し示すと、正直なU君は、「んがーっ」と言いながら両手で頭をかきむしった。

その仕草が可笑しかったのと、彼の正直さに感銘したことで、いまもよく覚えている。

主にある兄弟なら、彼の葛藤に共感できるだろう。

 

さて、箴言に入って7つ目の章になるが、あらためて、“姦淫への警告”が多いことに気づく。

そもそもが、聞き手として若者を想定していることもあるだろう。

さらに興味深いのは、語っているソロモン自身が、父ダビデが姦淫によって妻にしたバテ・シェバの子であることだ。

ソロモンは、ダビデからどのように教訓されたのだろうか。

 

私が家の窓から、格子窓から見下ろして、浅はかな者たちを見ていると、若者たちのうちに、良識のない一人の若い者がいるのに気づいた。(6-7)

 

神は「家の窓」どころか、天から見下ろしておられる。

 

彼は、女の家への曲がり角近くの街路を通って、その家に至る道を進んで行った。(8)

 

この時点では、「女の家」まではまだ距離がある。

しかし、「女の家への曲がり角近く」を、わざわざ彼は通った。

心はすでに捕らえられているのだ。

そして、「その家に至る道」を進んで行く。

 

5章で見たように、“近づかない”のが最善の策なのだ。

 

あなたの道をこの女から遠ざけ、その家の戸口に近づくな。(箴言5:8)

 

 

それは、たそがれの、日の沈むころ、夜と暗闇の始まるころだった。(9)

 

神の光の中にいれば、わたしたちの心は守られるが、闇に入って行けば、罪と死に支配されるのは時間の問題だ。

 

すると、遊女の装いをして、本心を隠したある女が彼を迎えた。(10)

 

この女は偶然そこにいたのではない。

待ち伏せていたのだ。

 

この女は騒がしく、頑なで、その足は自分の家にとどまらず、あるときは通りに、あるときは広場にいて、あちこちの角のところで待ち構えていた。(11-12)

 

女の目的はただ一つ、彼をおびき寄せて“殺す”ことだけだ。

 

この女は彼を捕まえて口づけし、臆面もなく彼に言う。「・・・さあ、私たちは朝まで愛に酔いしれ、愛の喜びを互いに味わいましょう。」(13・18)

 

この時点で、勝ち目はない。

 

彼はただちに、彼女の後について行く。牛が屠り場に引かれて行くように、足かせが愚か者を懲らしめているかのように。(22)

 

誘惑にかかりそうになったら、屠り場に引かれる牛を思い出そう。

牛は嫌がって進もうとしないから、まだマシだ。

人は嬉々としてついて行く。

悲惨な結末になるとも知らないで。

 

最後は矢が彼の肝を射抜く。それは、自分のいのちがかかっているのを知らずに、鳥が罠に飛び込むようなものだ。(23)

 

まるで映画を観るような描写だったが、これも、誘惑にかかる愚かさをより印象づけるための工夫かもしれない。

注意して、賢く歩みたい。

そして、いまも誘惑と戦い苦しんでいる自分自身と主にある兄弟姉妹たちのために、共に祈ろうではないか。

 

子たちよ。今、私に聞き従い、注意して私の口のことばを聞け。彼女の道に、心がそれて行ってはならない。その通り道に迷い込んではならない。(24-25)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村