夜、床についていても
私は夜、床についていても、私のたましいの恋い慕う方を捜していました。私が捜しても、あの方は見つかりませんでした。(雅歌3:1)
娘は「床についていても」、すなわち夢の中でも、「あの方」を捜し求めていた。
夢は、その人の心に強くあることを映し出す。
わが国の『万葉集』にも、夢を詠んだ歌がたくさんある。
そこでは自分が恋い慕う人が出てくるだけでなく、相手が自分を想って夢に現れると考えたというのだから、おもしろい。
さて、主イエスの夢を見たことがあるだろうか。
残念ながら、わたしはない。
教会の人たちの夢なら何度も見たが、イエスさまの夢は・・・、あるようなないようなといったところだ。
こう考えたところで、ふと思い出した。
声ならある。
何か苦しくもがいていた。
そのとき、かすかな声だが耳もとではっきりと、「わたしにゆだねよ」と聞こえた。
スポーツ選手は競技の夢を見、研究者は研究の夢を見る。
登山家は山の夢を見、職人は仕事の夢を見る。
わたしたちは、主イエスの夢を見よう。
それほどまでに、主イエスに恋い焦がれよう。
私は彼らのところを通り過ぎると間もなく、私のたましいの恋い慕う方を見つけました。私はこの方をしっかり捕まえて放さず、ついには私の母の家に、私を身ごもった人の奥の間に、お連れしました。(4)
夢の中のことではあるが、娘は「あの方」をしっかり捕まえて放さなかった。
わたしなどは、朝読んだみことばも、朝食後には忘れてしまう。
「しっかり捕まえて」、一日中みことばとともに、主イエスとともに歩みたい。
主よ、あなたの御顔を慕い求めます。
もっともっと、あなたに恋い焦がれる者としてください。
あなたの愛を、何にもまさる最上の喜びとして歩めますように。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9)