みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

白い衣を着よ

いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。(伝道者9:8)

 

伝道者の語りは、根底に「空しさ」を響かせながら続く。

 

すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。(2)

 

正しく生きても悪く生きても「同じ結末」というのは、公平なようで不公平ではないだろうか。

 

日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。(3)

 

しかし、それはあくまでも人間の見方であって、神の目から見れば、すべての人はさばかれるべき罪人である。

その意味では、すべての人が「同じ結末」を迎えるのは、神のさばきが正しいことの表れともいえる。

 

生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。(4-5)

 

“死んだら終わり”ということだ。

現代人の大半は、そう考えている。

そう考えようとしている。

 

さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。(7)

 

伝道者は、空しさを嘆きながらも、時折このように、一見快楽主義的な言葉を語る。

「神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる」とは、どう解釈すればいいのか難しいが、“キリストにあって”歩むとき、それは完全に実現するだろう。

そう考えると、次節も励ましの言葉となってくる。

 

いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。(8)

 

聖書は、キリストを着よ、御霊に満たされよ、と教えているが、まさにこのみことばがそれを連想させる。

 

あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。(9)

 

空しい人生ではあるが、その中でも神は喜びを与えておられる、愛する妻との生活もそのひとつだ、と教える。

空しさは変わらないが、それでも喜びもあるのだから、それを味わって生きよ。

神を信じない人の多くも、そのように納得させながら生きているのではないか。

 

人生とは空しいものだ、無常なものだ、それを受け入れよ、と。

おそらく、人から、地上から、下から辿り着く結論は、そこが限界だ。

だからこそ、神から、天から、上からの啓示が必要だったのだ。

 

イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。(ローマ13:14)

 

御霊を消してはいけません。(1テサロニケ5:19)

 

 

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