風をとどめておくことのできる人はいない
風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。(伝道者8:8)
先日、「欲望のひとり歩き」(伝道者6:9)というみことばを見たが、人の欲望はあらゆる方面に限りがない。
その欲望のひとつに“支配欲”がある。
何かを支配したい、上に立ちたい、思うがままにしたい、という欲だ。
挙句の果てには、神をさえ支配しようとする。
「神とは人間の想像の産物に過ぎないのであってだね・・・」などとのたまうのは、すでにその欲を満たそうとするわざだ。(かつてのわたしがそうであったが)
もちろん、神がそれを許されるはずもなく、人はわからないことだらけだ。
何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。(6)
今日のうちですら、何が起きるのか、だれも知らない。
それは風を手中に収めようとするようなもので、どだい無理な話だ。
あなたがたには、明日のことはわかりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたはしばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。(ヤコブ4:14)
人は支配者としてではなく、管理者として、神から託されている。
この世界も、自分自身も。
支配者はイコール所有者だが、管理者は所有者ではない。
わたしたちが人生を空しく感じ、苦しくなるのは、もしかすると自分を支配者にしようとしているからではなかろうか。
当然、自分の思い通りにならなければおもしろくない。
「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。」(マタイ6:27)
自分は自分のものではなく、管理者にすぎないと受け取れば、何か変わるのではないか。
これも、“主を恐れる”というひと言につながっていく気がする。
人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。(17)
あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。(1コリント6:19-20)