みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

生きていることを憎んだ

私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。(伝道者2:17)

 

引き続き、物憂い告白が続く。

 

私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。(1)

 

彼は「私の心は知恵によって導かれている」(3)と言っているが、その賢さゆえに、この世のいっさいが空しいという現実に気づいた。

快楽だけでなく、さまざまな事業や成功さえも、それは同じだと。

 

私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。・・・私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。(4-5・8-9)

 

人も羨むような成功を手に入れた彼も、結局、こう告白した。

 

しかし、わたしは自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(11)

 

思うに、彼はきっとバリバリと精力的に仕事をする、いまでいう一流ビジネスマンのようであっただろう。

まさか「すべてが空しい」と感じているとは、周囲の人たちは気づかなかったのではなかろうか。

そんな人が、いま、わたしたちの周りにもいるかもしれない。

 

私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。(15)

 

どうせ死んでしまうのだ、知恵が何になろう、というのだ。

その答えを彼に伝えるとすれば、「日の下」(神抜きの地上の世界)は根本的に空しいことを世に知らしめるためだった、ということだ。

 

私は生きていることを憎んだ。(17)

 

どうもがいても虚無から抜け出すことができない、その“生”を彼は憎んだ。

神を抜きにして生きるなら、ほんとうは、だれもがそうなって不思議はないのだ。

 

「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」(マタイ6:19-21)

 

 

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