主は私の羊飼い
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。(詩篇23:1)
ダビデは、若き日を羊飼いとして過ごした。
羊飼いと羊、双方の気持ちを熟知する彼は、自らを羊に、主を羊飼いにたとえた。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。(2)
羊飼いは、羊を砂を噛むような砂漠には連れて行かない。
羊が健全に過ごせ、いこいを得ることができる場所に導く。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。(3)
羊飼いは羊の心を満足させ、間違った道から守って正しい道へと誘導する。
たとえ、死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。(4)
だからといって、快適な道ばかりとは限らない。
ときには、死の危険を伴う険しい道を行くこともある。
それでも、羊は恐れない。
羊飼いがいっしょにいてくれるなら安心だ。
むちと杖はときに痛い思いを与えるが、それは羊飼いの守りそのものだ。
羊にとってもっとも危険なことは、わざわいに遭うことではなく、羊飼いから離れることなのだ。
私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。(5)
羊飼いは、かならずしも敵をやっつけない。
しかし、羊飼いがいるならば、敵は手が出せない。
羊飼いは、食卓(必要)を満たし、香油(祝福)を注いでくれる。
あふれるほどに。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。(6)
良いことしか起こらない、という意味ではない。
「死の陰の谷」「わざわい」「敵」は存在している。
その中にあっても、喜びと平安をもって生きることができるということだ。
愛されている子どもとして、わたしたちは、いつまでも主の家に住まうことができるのだ。
「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:10-11)