みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

空の空。すべては空。

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。(伝道者1:2-3)

 

きょうから『伝道者の書』に入る。

諸説あるようだが、一般に著者はソロモンとされる。

たしかに、それと思われる表現が多々あるので、ここでもソロモンによる書として進めたい。

 

エルサレムの王、ダビデの子、伝道者のことば。(1)

 

この書き出しに続いて、冒頭の2~3節がある。

「空」は、英語の聖書では「meaningless」とか「vanity」となっている。

意味がない、空しい、といった意味だ。

 

「空の空。すべては空。」とは、どことなく仏教を思わせる言葉で興味深い。

 

一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。(4-8)

 

まさに生生流転。

すべてのものが移り変わり、巡り巡る。

 

すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目で見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。(8)

 

まるでヨーロッパの古い映画のような物憂さが漂う。

極めつけは、このあとだ。

 

昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。(9-11)

 

ソロモンは三千年前の人だ。

その時代にすでに、新しいものは一つもなく、何もかも「はるか前の時代にすでにあったものだ」という。

しかも忘れ去られる。

 

“つわものどもが夢の跡”ではないが、どんなに人々が立ち騒ぎ、繁栄し、悲喜こもごもを繰り広げたとしても、いっさいは消え去る。

たしかに、空しい。

 

私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。(14)

 

彼は、思った。

よし、この世のいっさいを見極めよう。

ほんとうのことは何か、真理は何か、見出そう。

 

私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。(17)

 

しかし結局は、それすら空しい。

抜け出せない蟻地獄に落ちたかのように、世の“空しさ”に気づいた彼は、そこから抜け出す術(すべ)を知らない。

 

ところで、この書を象徴する言葉がある。

それは「日の下」という言葉だ。

 

それは目に見える地上だけの世界、すなわち、“神抜きの世界”を意味する。

 

神を外した世界は、すべてが無意味であり、空しい。

そして、そこに気づくことにこそ救いの光がある。

 

「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(ルカ12:32)

 

 

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