みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

主に私は身を避ける

主に私は身を避ける。(詩篇11:1)

 

主に信頼するのか、それとも主以外の何かに信頼するのか、11篇はそれを問うている。

 

どうしてあなたがたは私のたましいに言うのか。「鳥のように、自分の山に飛んで行け。それ見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、暗がりで心の直ぐな人を射抜こうとしている。拠り所が壊されたら、正しい者に何ができるだろうか。」(1-3)

 

注釈によれば、これは友人たちからの忠告のようだ。

「きみが主にのみ信頼するというのはわかる。しかし、悪者はすぐそこまで来ているのだ。早く山に逃げなさい」

 

彼らの言葉は、理にかなっている。

しかし問題は、山に逃げることの良し悪しではない。

それによって主に信頼する態度が減弱するのかどうか、それが問題だ。

 

わたしたちもまた、現実の生活の中でさまざまなことに対処し、また準備をする。

問題は、それが“主に徹頭徹尾信頼する”という土台の上に行われているのか、それとも主への信頼と天秤にかけて行われているのか、どちらなのかということだ。

天秤状態であるなら、主以外のものを頼ることは、主を頼る態度を減弱することになる。

 

ダビデは、「主に私は身を避ける」、すなわち、私は主に信頼する、という態度を貫いた。

 

主は、その聖なる宮におられる。主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは人の子らを調べる。(4)

 

戦国大名は一様に、天守閣の上から町を見下ろした。

民を監視するためであった。

まことの神、まことの王は、すべてにまさって高き方であり、そこからすべてを見通しておられる。

この告白を、王であるダビデがしていることに、感動する。

 

主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄、燃える風が彼らへの杯。主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は御顔を仰ぎ見る。(6-7)

 

まことの神は、いっさいを正しくさばいてくださる。

だから、自分は主に信頼し続け、直ぐな人として御顔を仰ぎ見るのだ。

ダビデの、この証しに倣う者でありたい。

 

主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。・・・主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」(エレミヤ17:5・7)

 

 

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