みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

神は心の直ぐな人を救われます

私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われます。(詩篇7:10)

 

7篇においてダビデは、神の義とさばきについて歌っている。

 

私の神、主よ。私はあなたに身を避けます。どうか、追い迫るすべての者から私を救い、助け出してください。(1)

 

彼は、多くの敵から追われ続けた。

そんな中、主に助けを求めると同時に、自らも主に吟味されるべき者としてひれ伏した。

 

私の神、主よ。もしも私がこのことをしたのなら、もしも私の手に不正があるなら、・・・敵が私のたましいに追い迫り、追いつき、私のいのちを地に踏みにじるようにし、私の栄光をちりの中に埋もれさせてください。(3・5)

 

6節以降も神のさばきを求めながら、やはり自分自身もさばきに服する態度を取っている。

 

主は諸国の民にさばきを行われます。私の義と、私にある誠実にしたがって、主よ、私をさばいてください。(8)

 

9節では、こう語る。

 

正しい神は、心の深みまで調べられます。(9)

 

「心の深みまで」調べられるとき、だれが御前に立ちえようか。

そのときダビデは、救いにあずかる人についてこう証言した。

 

私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われます。(10)

 

神が救い給うのは「心の直ぐな人」だ。

それは、どういう人のことだろうか?

 

神は正しい審判者、日々憤る神。立ち返らない者には剣を研ぎ、弓を張って、狙いを定められます。(12)

 

「心の直ぐな人」とは、罪人として神のみもとに立ち返る人のことだ。

神の御前では、“砕かれた心”と“直ぐな心”は同意である。

反対に、神に立ち返ろうとしない頑なな者は心の曲がった者であり、神の救いが逃げ去る。

 

その害悪は自分の頭上に戻り、その暴虐は自分の脳天に下ります。(16)

 

この詩篇を読むと、ダビデの謙遜な態度にあらためて学ばされる。

彼はけっして、自分を義の棚の上に置いて悪者を見下げる、といった態度を取っていない。

彼の心にあるのは「神の義」であって、神がすべてを見通し、正しくさばかれる方であることを賛美している。

そして自らは、そのさばきの前に一人の罪人としてへりくだろうとしているのだ。

 

これこそ、クリスチャンとして学ぶべき態度ではなかろうか。

クリスチャンが自分を正しい者であるかのように考え、世の人を見下すときに、人々はつまずく。

ダビデのように、自分もへりくだりながら、義なる神をほめたたえる者でありたい。

 

私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方、主の御名をほめ歌います。(17)

 

 

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