心を尽くして、私は主に感謝を
心を尽くして、私は主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。(詩篇9:1)
「心を尽くして、主に感謝をささげる」とのダビデの言葉に、はっとなった。
わたしは、「心を尽くして」感謝しているだろうか。
たしかに、祈りのなかで「感謝します」と口にするが、漠然としたあいまいな気持ちで言っているのではないか。
人と会ったときに、「いつもありがとうございます」と言われるのと、「先日は〇〇のことで、ありがとうございました」と言われるのとでは、相手の気持ちが伝わるのは後者のほうだ。
そう考えると、あのこと、このことについて、きちんと主に感謝申し上げていないことに気づかされる。
昔の祈りが、実は、十分に聞かれていることだってある。
自分の感謝の祈りを、いま一度見直そう。
私はあなたを喜び、誇ります。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌います。(2)
わたしたちは、自分を見たら、落胆するか、傲慢になるかのどちらかだ。
ダビデは「あなたを喜び」ますと告白した。
どんな状況にあっても“主を喜ぶ”ことができるのが、まことの神を知る者の強味だ。
まことの神は、正しくさばかれる義なるお方だ。
あなたが、私の正しい訴えを聞かれるからです。義の審判者として王座に着いておられるからです。(4)
まことの神は、ご自身を求める者を守られるお方だ。
主は虐げられた者の砦。苦しみのときの砦。御名を知る者は、あなたに依り頼みます。主よ。あなたを求める者を、あなたはお見捨てになりませんでした。(10)
まことの神は、へりくだる者に目を留め、祈りを聞いてくださるお方だ。
血に報いる方は、彼らを心に留め、貧しい者の叫びをお忘れにならない。(12)
貧しい者は決して忘れられることがなく、苦しむ者の望みは、永遠に失せることがない。(18)
わたしたちは、このような方を“わが神、わが主”と呼ぶ恵みにあずかった。
この方を大いに喜び、心を尽くして感謝をささげよう。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31)