みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたのさばきは高すぎて

彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高すぎて、彼の目に入りません。敵という敵を、彼は吹き飛ばしてしまいます。(詩篇10:5)

 

聖書がすごいと思うのは、神を信じる者たちが体験するありとあらゆる悩み苦しみが描かれていることだ。

それも、たとえばこの詩篇などは、少なくとも2500年以上も昔の言葉だ。

それがいまも、わたしたちの心に迫り、胸を打つ。

 

10篇で語られるのは、神を信じない者の繁栄だ。

神を畏れ敬う者たちが苦しみ、神を神とも思わぬ者が富み栄える。

考えるだけで、苦しくなってくる。

 

主よ。なぜ、あなたは遠く離れて立ち、苦しみのときに、身を隠されるのですか。(1)

 

理不尽な苦しみに、「なぜ」と問いたくなる。

しかし、詩人が「神は身を隠されている」と考えたのは間違いだった。

その証拠に、彼の言葉がそのまま、こうして聖書に収められている。

 

悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです。(4)

 

わたしたちは、科学の発達した現代の人々は無神論に走りやすく、文明の未熟な古代の人たちは何でも神として信じやすいと考える傾向があるが、このみことばによるとそれも違うようだ。

古代だろうが、現代だろうが、人は神を信じたがらず、「神はいない」と考えたがる。

 

5~6節では、なんと神を侮る者が大いに栄えている。(冒頭)

 

彼は心の中で言っています。「私は揺るがされることがなく、代々にわたって、わざわいにあわない。」(6)

 

詩人は、これが神の「さばき」であることを知っていた。

そのさばきがあまりにも高すぎるため、悪者には見えないのだ。

 

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。(ローマ1:28新改訳第三版)

 

神のもっとも厳しいさばきは、苦しみを与えることではない。

もっとも厳しいさばきとは、何でも自分の思いどおりになり、自らを神のごとく考え、悔い改める機会を失うことだ。

 

彼は心の中で言っています。「神は忘れているのだ。顔を隠して、永久に見ることはないのだ。」(11)

 

何のために、悪しき者は神を侮るのでしょうか。彼は心の中で、あなたが追及することはないと言っています。(13)

 

「見ろ、神など崇めなくても、こんなに繁栄しているではないか。神のさばきなど、考えなくても大丈夫だ。すべてうまくいっているのだから」ということだろう。

 

わたしの師は、よくこう語っていた。

「死ぬまで大丈夫かもしれない。けど、死んでから・・・大変です」

 

聖書によれば、ほんとうの意味でもっとも厳しいさばきは「死」ではなく、「第二の死」だ。(黙示録20:14-15)

 

終わりの時代には、魅力的な成功者たちが多く出て、「私こそ神である」(私の言うことが真理だ)とたくさんの人たちを惑わす。

それに惑わされないよう、主を畏れ、主の前に小さき者としてひれ伏そう。

 

主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし、耳を傾けてくださいます。(17)

 

 

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