二人は一人よりもまさっている
二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。(伝道者4:9)
伝道者の虚無感は極みに達する。
いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。また、この両者よりもっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを、見なかった者だ。(2-3)
生きている人より死人のほうが良い、いや、そもそも生まれなかった者が最も良い、と言う。
まるで「生まれてすみません」と言った太宰治を彷彿とさせるような言葉だ。
さらに彼の目は、「ひとりぼっち」の人に向けられる。
ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もいない人がいる。それでも彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。そして「私はだれのために労苦し、楽しみもなく自分を犠牲にしているのか」とも言わない。これもまた空しく、辛い営みだ。(8)
ヘルパーさんが新聞がたまっていたのでおかしいと、警察に家の中を確認してもらったら、すでに亡くなっていた・・・。
おそらく、そう珍しい話ではない。
そのような人も、生きるために、生きるためだけに、労苦した。
たしかに、空しい。
ところが、ここから伝道者の口調が変化を見せる。
二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるときには、一人がその仲間を起こす。倒れても起こしてくれる者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、二人が一緒に寝ると温かくなる。一人ではどうして温かくなるだろうか。一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。(9-12)
「ひとりぼっち」の人の哀れさを思った反動か、「仲間」がいる人の幸いに思いが向けられた。
すると、心の空しさを払うような薄い光が差し込んで来た。
ここに、わたしたちにとって重要なヒントがあるのではないだろうか。
生きることが空しく、生まれたことを憎むほどになる。
そんなときはたいてい、自分のことしか考えていないものだ。
朝から晩まで、自分のことで頭がいっぱいなのだ。
よく言われることだが、人は一人で生きることはできないし、一人だけで生きるようにも造られていない。
こんなわたしでも、きっと誰かの役に立てるし、誰かを助けることができる。
そこに目を向けてみると、何かが変わってくるかもしれない。
何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(ピリピ2:3-5)