みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

決して満たされない

人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。(伝道者6:7)

 

伝道者は、もっとも望ましいと思われる人物を引き合いに出す。

 

神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる、これは空しいこと、それは悪しき病だ。(2)

 

「望むもので何一つ欠けることがない」のは幸福そのものではないかと思いきや、そうではないようだ。

 

もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。(3)

 

多くの子孫と長命、これらは誰もが望むものだ。

しかし、それもほんとうの満足をもたらすことはない。

理想郷と思った場所にようやく辿り着いたら、理想とはほど遠い所だったといった感じだろうか。

たしかに辛いことだ。

 

人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。(7)

 

ここで「食欲」について述べているが、これは人間の“欲望の象徴”として出している。

結局、富も、誉れも、子孫も、長命も、人間の欲望の現れに過ぎないのだとしたら、それらは「決して満たされない」。

 

目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。(9)

 

「欲望のひとり歩き」とは、おもしろい表現だ。

欲望が当てどもなくさまよっている。

なるほど、そんなものかもしれない。

 

だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。(12)

 

この問いに対する答えを、人は持っていない。

だからこそ、神のひとり子が人の姿をとり、地上に来られたのだ。

 

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」(マタイ16:25-26)

 

「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

 

 

にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村