主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者
神は馬の力を喜ばず、人の足の速さを好まれない。主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(詩篇147:10-11)
イスラエルを特別に守られる主をほめたたえる賛歌だ。
イエス・キリストをとおして神の家族とされたわたしたちキリスト者も、自分のものとして読むことができる。
主は心の打ち砕かれた者を癒やし、彼らの傷を包まれる。(3)
このような言葉は、これまでの詩篇にも何度となく出てきた。
とにかく主は、人の奢り高ぶりを嫌われる。
それこそが、人を罪におとしめた根源だからだ。
主は心の貧しい者を支え、悪しき者を地面に引き降ろされる。(6)
イエスさまの言葉を思い出す。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
「心の貧しい者は幸い」とは、考えてみれば不思議な言葉だ。
ふつうは「心の豊かな者は幸い」と言われる。
直訳だと「霊において貧しい者」ということだが、心おごらず、神の御前につねにへりくだる態度を言うのであろう。
反対に「悪しき者」とは、「引き降ろされる」とあるとおり、すでに高き所に自らを置いている者だ。
神は濃い雲で天をおおい、地のために雨を備え、また、山々に草を生えさせ、獣に、また、鳴く烏の子に、食物を与える方。(8-9)
この夏は雨が異常に多い。
ちょうどこれを書いているいまこの時も、空は「濃い雲」でおおわれている。
これもまた神のなさるみわざ。
また、烏は往々にして嫌われ者だが、神はその鳴き声にも目を留めておられ、食物を与えられる。
今度から、烏がうるさいと感じるときは、このみことばを思い出そう。
神は馬の力を喜ばず、人の足の速さを好まれない。主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。(10-11)
「人の足の速さ」は、以前の訳では「歩兵」となっていた。
馬や歩兵といった戦力を好まれず、主を恐れる者と、御恵みを待ち望む者とを好まれる。
ここでも、人間的な“力”は、神に嫌われる。
わたしたちは、神によって造られ、生かされ、導かれている存在だ。
そのことを忘れて、自分の力で生きているかのような勘違いをしないようにしたい。
幼子のように、すなおな信仰をもって、神を見上げたい。
天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。(詩篇103:11)