みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

天が地上はるかに高いように

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。(詩篇103:11)

 

ダビデによる」とされるこの103篇も、名句と名高い詩篇だ。

 

わがたましいよ、主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。(1)

 

「わたしのうちにあるすべてのものよ」、まさに全身全霊をもって主を賛美せよと言っている。

 

わがたましいよ、主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(2)

 

人にした良いことは覚えていても、人から受けた恩は忘れている、それがわたしたち人間ではなかろうか。

まして、目に見えない神が良くしてくださったことなど、意識すらしていないかもしれない。

不満を数える暇があるなら、「主が良くしてくださったこと」を数えよう。

 

主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし、あなたのいのちを穴から贖われる。(3-4)

 

すごいことが書いてある。

「すべて」赦し、癒やされる。

ほんとうだろうか?

 

主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。主は、いつまでも争ってはおられない。とこしえに、怒ってはおられない。(8-9)

 

ほんとうなら福音に違いないが、にわかには信じがたいことと思われる。

 

私たちの罪にしたがって、私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いをされることもない。(10)

 

いやいやそれはおかしいのではないですか、とでも言いたくなる。

ダビデは続ける。

 

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(11-12)

 

わたしたちは、いつの間にか「天」の高さを限定していないか。

「東」と「西」の遠さを限定していないか。

 

これぐらいのしわざにはこれぐらいの恵みだろう、これぐらいの赦しだろうと、自分のちっぽけな物差しを当てて測ろうとしてはいないだろうか。

それは、主の「御恵み」と「赦し」を侮ることではないか。

 

父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちが土のちりにすぎないことを、心に留めてくださる。(13-14)

 

主から見れば、わたしたちは「土のちりにすぎない」。

ちりがちっぽけな頭であれこれ考え、主の御恵みを限定してはいけない。

もう一度見よう。

 

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、主は、私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。(11-12)

 

主の御恵みと赦しは、ちりの頭で考える範囲をはるかに超えて、完全なのだ。

きょう、新しく確信しよう。

御恵みは、主を恐れる者の上に大きいと。

 

主をほめたたえよ、すべて造られたものたちよ。主が治められるすべてのところで。わがたましいよ、主をほめたたえよ。(22)

 

 

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