私の指を鍛えられる方
わが岩なる主が、ほめたたえられますように。戦いのために私の手を、戦のために私の指を鍛えられる方が。(詩篇144:1)
ダビデは“戦いの人”であったが、つねに主に依り頼んだ人でもあった。
自分の手、自分の指を強くしてくださるのは主であると、知っていたのだ。
だから、ほめたたえられるべきは、私ではなく主であると語った。
主よ、人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人は息に過ぎず、その日々は影のように過ぎ去ります。(3-4)
主は私を鍛えてくださり、私を知っておられ、顧みてくださると、ダビデは証ししている。
つまり主は、わたしたち人間に、ご自身のほうから関わろうとしてくださるということだ。
その究極の姿がイエスさまだ。
イエスさまは、人を悪魔の支配から救い出すために、天から下って来られた。
主よ、あなたの天を押し曲げて降りて来てください。(5)
いと高き所からあなたの御手を伸べ、大水から、また異国人の手から、私を解き放ち、救い出してください。彼らの口は嘘を言い、その右の手は偽りの右手です。(7-8)
イエスさまは、悪魔を「偽りの父」とされた(ヨハネ8:44)。
つまり、世の“嘘・偽り”の起源は悪魔である。
悪魔の作り出した偽りの世界から、主は救い出してくださる。
「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31-32)
ダビデは、子々孫々の繁栄を祈っている。
このような祈りもしていいのだと、勇気づけられる。
私たちの息子らが、若いうちから、よく育てられた植木のようになりますように。私たちの娘らが、宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。私たちの倉は、もろもろの産物で満ちますように。私たちの羊の群れは、私たちの野で、幾千幾万となりますように。(12-13)
この終わりの時代にあって、悪魔はひとりでも救われることのないようにと、忙しく動いている。
いまほど世界的な規模で“嘘・偽り”が広がっている時代は、かつて無かったと思われる。
完全なる主のご支配が早く来ますようにと、祈るばかりだ。
幸いなことよ、このようになる民は。幸いなことよ、主を自らの神とする民は。(15)