偽りの唇、欺きの舌から、救い出してください
主よ、私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から、救い出してください。(詩篇120:2)
120篇は、「都上りの歌」とある。
解説をみると、<エルサレムに巡礼する人々によって歌われた>ということだ。
少年イエスが両親とともにエルサレムに向かったときも、きっとこのような歌を歌われたのだろう。
苦しみのうちに私が主を呼び求めると、主は私に答えてくださった。(1)
詩人は、「苦しみのうちに」あった。
どのような苦しみだったのか。
冒頭にあげた2節には、「偽りの唇」「欺きの舌」に囲まれていたことがわかる。
ああ、嘆かわしいこの身よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕に身を寄せるとは。(5)
彼は、異国の地に暮らさざるをえなかった。
その国民は、どうだったか。
この身は、平和を憎む者とともにあって久しい。私は、平和を――と語りかければ、彼らは戦いを求めるのだ。(6-7)
これは、なんとも悩ましい状況だ。
彼らは「平和を憎む者」だった。
こちらが和平を求めても、好戦的だったのだ。
いまのイスラエルとパレスチナの問題を思い起こさせるが、昔から似たようなものだったということだ。
わたしたちは、どうだろう。
日本人は少なくとも表面上は平和的だ。
そこまで好戦的な人は少ない。(まったくいないわけではないだろうが)
ただ、クリスチャンというだけで悪口を言われたり、皮肉を言われたりすることはあるかもしれない。
キリストは・・・ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。(1ペテロ2:23)
詩人も、この態度をとった。
主よ、私のたましいを、偽りの唇、欺きの舌から、救い出してください。(2)
さらに言えば、「偽り」「欺き」とは、悪魔そのものだ。
悪魔は絶えずわたしたちを偽りをもって欺き、殺そうとしている。
イエスさまは、それを喝破しておられた。
「悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」(ヨハネ8:44)
ならば、ますますこの2節の祈りを自分の祈りとする必要がある。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。しかし、真理を行う者は、その行いが神にあってなされたことが明らかになるように、光の方に来る。(ヨハネ3:20-21)