心を尽くして呼び求めます
私は心を尽くして呼び求めます。主よ、私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。(詩篇119:145)
119篇、最後の5回目は145~176節だ。
読みながら、ふと思った。
詩人はこれほどまでに、主のみことば、みおしえ、みおきてを愛し、求めている。
当時のみことばとは、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)であろう。
当時の人は、現代のわたしたちに言うかもしれない。
「あなたたちは羨ましい。なぜなら、神の御子キリストからたくさんのみことばを直接いただいたのだから」
彼ら旧約の聖徒は「影」を見ており、わたしたち新約の聖徒は「本体」を見ている。
ならば、わたしたちこそ、彼ら以上に熱烈なる愛をもって主のみことばを慕い求めていなければならない。
さて、145節には「心を尽くして呼び求めます」との告白がある。
次節以降にも続く。
私はあなたを呼び求めます。・・・私は夜明け前に起きて、叫び求めます。(146-147)
主を呼び、叫び求める。
この態度が、自分にはあるか。
たんに“お祈りする”というのではない。
“御名を唱える”のでもない。
心から呼び求め、叫び求める態度だ。
あなたの恵みによって、私の声を聞いてください。(149)
わたしもてらわずに言おう、「私の声を聞いてください」と。
なぜ、そう言えるのか?
しかし、主よ、あなたがそばにおられます。(151)
主が「そばにおられ」るからだ。
詩人は、ある意味で遠慮がない。
私の苦しみをご覧になり、私を助け出してください。・・・私の言い分を取り上げ、私を贖ってください。(153-154)
子が親に遠慮するなら、それは親にとって悲しみだ。
もっと大胆に、もっと正直に、呼び求めてもよいのではないか。
あなたのあわれみは偉大です。(156)
主を信頼し、心を尽くして呼び求めよう。
主よ、私はあなたの救いを慕っています。あなたのみおしえは私の喜びです。(174)