いつも、私の思いとなっています
どれほど私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも、私の思いとなっています。(詩篇119:97)
119篇、第4回目は97~144節とする。
上のみことばの「いつも」は、直訳では「一日中」であり、新改訳第三版ではそのように訳されていた。
わたしは、「一日中」のほうがしっくりくる。
このブログを始めて一年が過ぎたが、良かったと思うのは、これまでよりもはるかにみことばを祈り深く読むようになったことだ。
毎朝、祈りつつ聖書を開き、主のみことばを聞く。
みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。(130)
そのとおり、朝の光とともに、みことばの光が心に差し込んでくる。
これ以上の至福の時はない。
ところが、だ。
問題は、その“至福”も日常の生活に取り掛かると途端に消え去ってしまうことだ。
朝露が夏の日照りにさっと渇くように、朝の祝福も立ちどころに忘れ去ってしまう。
お昼ごろには、与えられたみことばを思い出せないくらいになっている。
情けないが、これが現状である。
一日前、二日前、三日前の夜食を思い出すことが“ボケ防止”になると言われるが、それにまさる熱心さをもって、みことばを思い出すことが必要なのではないか。
ヤコブは、そんなわたしのような人間にこうアドバイスしてくれた。
みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。(ヤコブ1:22-25)
ヤコブは、信仰に伴う“行い”を強調した人だ。
それは、みことばを聞くだけの者や、すぐに忘れる者にならないための、たいせつなポイントなのだ。
ということは、すぐに忘れてしまうのは、ほんとうにはみことばを実行するつもりがないからかもしれない。
主のみこころを行いたい、みむねにかなった歩みをしたいと、ほんとうに思っているのかどうか。
みことばを一日中慕い求め、実行し、ますますみことばと一つになりたい。
主よ、どうぞ助け、導いてください。
私は、いつもいのちがけです。それでも、あなたのみおしえを忘れません。(109)
私は、あなたのおきてを行うことに心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。(112)