みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

私は主に叫びます

声をあげて、私は主に叫びます。声をあげて、私は主にあわれみを乞います。(詩篇142:1)

 

副題に「ダビデが洞窟にいたときに」とあるので、ダビデが敵から逃れて洞窟に潜んでいたときの祈りだ。

わけもなく恨まれ、追われる身。

その苦しみは、どれほどであったろう。

 

しかし彼は、いつもそうであったように、なによりもまず主に向かって声をあげた。

 

私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。(2)

 

昨日も書いたが、この態度をとるかどうかで、心が守られるかどうかが大きく変わる。

信仰者の強味は、主に身を避けることができるという、そこにこそある。

 

このとき彼は、孤独のなかにあった。

 

ご覧ください、私の右に目を注いでください。私には、顧みてくれる人がいません。私は逃げ場さえも失って、私のいのちを気にかける人もいないのです。(4)

 

わたしたちも、ときに、自分が完全に孤独であるような気がするのではないだろうか。

「私には、顧みてくれる人がいません」と。

ベテスダの池のほとりで38年間も病に伏せていた男を思い出す。

 

「主よ。水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。」(ヨハネ5:7)

 

だれも見向きもしなかったその人に、イエスさまは声をかけられた。

 

エスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」すると、すぐにその人は治って、床を取り上げて歩き出した。(同8-9)

 

孤独のなかから、ダビデはこう祈っている。

 

主よ、私はあなたに叫びます。「あなたこそ私の避け所、生ける者の地での、私の受ける分。」(5)

 

「主よ、私はあなたに叫びます」、この言葉を自分のものとしよう。

不安なとき、心乱されるとき、おびえるとき、すぐに「主よ、私はあなたに叫びます」と言おう。

 

私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。(6)

 

ダビデは相手が自分より強いと知っていた。

わたしたちに罠を仕掛け、陥れようとする者たちは、わたしたちよりはるかに強い。

だから、主のもとに身を避ける必要がある。

 

そして嬉しいことに、そのように歩むなら孤独からも解放されることを、ダビデは示唆している。

 

正しい人たちは私の周りに集まるでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。(7)

 

 

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