あなたは私を探り、知っておられます
主よ、あなたは私を探り、知っておられます。(詩篇139:1)
「あなたのすべては知られている」と伝えられたら、どのような感情になるだろうか。
おそらくは、恐怖を覚えるのではないかと思う。
<お前のやっていることを知っている>という謎の手紙を受け取った人は自殺してしまった、という話を聞いたことがある。
それほどに人は、他者にすべてを知られることを恐れる。
いっさい隠し事のない生き方に憧れるが、そんな人がはたしているのだろうかとも思う。
139篇は、すべてを知りたもう神を讃えるダビデの賛歌だ。
彼は、すべて知られていることを、恐怖ではなく喜びと平安の根拠とした。
あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ、遠くから私の思いを読み取られます。あなたは私が歩くのも伏すのも見守り、私の道のすべてを知り抜いておられます。(2-3)
すべてを知りたもう神の目は、ダビデにとって、“見張り”ではなく“見守り”であった。
良き羊飼いが羊の一挙手一投足に目を配り、配慮する目だ。
あなたこそ、私の内臓を造り、母の胎の内で私を組み立てられた方です。私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって、恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。(13-14)
どんなに無神論を主張する人であっても、母の胎内で神によって組み立てられたことに変わりはない。
自分の力で骨を形づくり、心臓を生み出し、皮膚でおおい、この世に生まれた人などいないのだ。
神よ、あなたの御思いを知るのは、なんと難しいことでしょう。そのすべては、なんと多いことでしょう。数えようとしても、それは砂よりも数多いのです。私が目覚めるとき、私はなおも、あなたとともにいます。(17-18)
多くの人は、「神がわからない」と言う。
それはそうだ。
もし「神がわかる」と言うなら、その人は浜辺の砂粒をすべて数えているに違いない。
わかるわけがないのだ。
だが、信じることはできる。
神よ、私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに、傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(23-24)
ダビデは、神が自分のすべてを知っておられ、見守ってくださっている、だから、安心して心をさらけ出し、みこころにかなった道へ導いていただこう、という態度をとった。
神はすべてをご存知の上で、わたしたちを愛し、受け入れてくださる。
安心して、心を探っていただこう。
そのような知識は私にとって、あまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。(6)