あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し
私は、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、恵みとまことのゆえに、御名に感謝します。あなたがご自分のすべての御名のゆえに、あなたのみことばを高く上げられたからです。(詩篇138:2)
ダビデは、聖なる宮に向かってひれ伏した。
「あなたのみことば」、すなわち主ご自身だけが“高い”お方であると知っていたからだ。
彼は王であるにもかかわらず、自分が高くされることを避け、むしろ主の前にひれ伏した。
だから、つぎのように言うことができた。
主よ、地のすべての王はあなたに感謝するでしょう。彼らがあなたの口のみことばを聞いたからです。(4)
そして、高きお方のいつくしみ深さも知っていた。
まことに、主は高くあられますが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を、遠くから見抜かれます。(6)
高いお方は、低い者を顧みてくださる。
しかし、高ぶる者には敵対される。
遠い昔、自分が救われた日のことを思い出す。
はじめてその礼拝に参加した私は、みながこうべを垂れ、祈っている姿を、見回していた。
神を求めているくせに、簡単には信じないぞと、高慢の頭をもたげていたのだ。
帰宅後、そのわたしの姿を、神は光で照らし出された。
なんと高慢で、恐ろしい罪人の姿であることか。
その夜、涙とともに悔い改め、わたしは新しく生まれた。
主は私のためにすべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざをやめないでください。(8)
“ひれ伏す”とは、一時的な姿勢のことではなく、持続的なあり方だ。
究極的には、主に降参し、自らを明け渡すことと言えるのではないか。
主が「すべてを成し遂げて」くださると、ほんとうに信じること。
すべてが「あなたの恵み」であると信じること。
信仰の面でも、疲れていたり、いらついていたりするなら、いつの間にか「高ぶる者」になっているのかもしれない。
「自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。あなたがたの言うことは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。」(マタイ5:36-37)