みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

仕掛けられた罠から助け出された

鳥のように、私たちのたましいは、仕掛けられた罠から助け出された。罠は破られ、私たちは助け出された。(詩篇124:7)

 

詩人は最初に、ひとつのフレーズを提示する。

 

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら。」さあ、イスラエルは言え。(1)

 

「主は私たちの味方である」というメッセージはいつも聞いているが、逆の場合だったらどうかを考えてみようということだ。

 

「もしも、主が私たちの味方でなかったなら、人々が敵対してきたとき、そのとき、彼らは私たちを生きたまま、丸呑みにしていたであろう。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、そのとき、大水は私たちを押し流し、濁流は私たちを越えて行ったであろう。そのとき、荒れ狂う水は、私たちを越えて行ったであろう。」(2-4)

 

主が味方でなかったなら自分たちはとっくに滅ぼされていた、という告白だ。

これは、今日までのユダヤ人の歩みにもそのまま当てはめられる。

 

わたしたちも、そうだ。

いま、こうして曲がりなりにも信仰を持ち、主を喜んで生きていられるのは、主がことごとく危険から助け出してくださったからだ。

そして、自分が知っている危険だけでなく、おそらくはその何百倍も、気づいてすらいない危険から守られているのだ。

「主が私たちの味方である」証拠だ。

 

ほむべきかな、主。主は私たちを、彼らの歯の餌食にされなかった。(6)

 

続く7節と合わせて、ここでは敵の「歯」や「罠」から守られていることを思い起こさせる。

悪魔は「ほえたける獅子」としてわたしたちを食い尽くそうと狙っている、とペテロは書いた。

もっとも賢いといわれる悪魔の罠をのがれるには、主の御助けがなによりも必要だ。

 

ところで、動物作家・椋鳩十の代表作に『大造じいさんとガン』がある。

大造じいさんはガンの狩猟家だが、羽に白い混じり毛のある「残雪」がガンの頭領になってから、ことごとく猟がうまくいかなくなった。

「残雪」がじいさんの罠や策略を見抜き、群れを安全に導いていたのだ。

じいさんは昔捉えたガンの一羽を十分に手なずけ、おとりとして群れに混ぜる作戦に出る。

そこにハヤブサが襲いかかり、群れの行動に慣れていなかったおとりのガンは、逃げ遅れて捕らえられそうになる。

ところが「残雪」が猛然とハヤブサに突進し、激しく傷めつけられながらもガンを守った。

これには大造じいさんもすっかり感心してしまった、という話だ。

 

わたしたちの主イエスは、悪魔の策略からわたしたちを守り、いこいの汀へと伴いたもう。

ときには身を呈して、守ってくださる。

主は私たちの味方。

そのことをあらためて心に刻みたい。

 

私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(8)

 

 

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