主は私の味方
主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。(詩篇118:6)
118篇は“歓喜の歌”だ。
敵に囲まれ、まさに絶体絶命のときに、不思議な方法で主に助けられた。
そこで、主への賛美があふれ出た。
主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。(1・29)
冒頭と結末に、この言葉がある。
それほど、主への感謝があふれた。
主は私の味方。私は恐れない。人は私に何ができよう。主は私の味方、私を助ける方。私は、私を憎む者をものともしない。(6-7)
「主は私の味方」。
わたしたちも、大胆に、確信をもって、くり返そう、「主は私の味方」と。
「主は私の味方」であると心の底から確信するなら、何も恐れることはない。
しかし現実問題として、わたしはやはり人を恐れてしまう。
人から何を言われるか、どう見られるか、嫌われないか、批判されないか・・・
多くの人も同じかもしれない。
人を恐れれば、いつの間にかがんじがらめになり、身動きが取れなくなる。
人を恐れる心の裏には、人から認められたい、愛されたいといった心がある。
人に信頼し、期待し、それが損なわれると傷つき、消耗する。
疲れて仕方がない。
「主は私の味方」、人に期待するのをやめよう。
主が完全に受け入れ、愛してくださっているのだから、人から何を言われようとかまわないではないか。
主に身を避けることは、人に信頼するよりも良い。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりも良い。(8-9)
さて、22節には有名なみことばが出てくる。
家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。(22-23)
イエスさまはこの「要の石」をご自身のこととして語られた。(ルカ20:17参照)
それほど重要なみことばであるが、それにしてもこのような表現が突然出てくることが不思議である。
詩人は、どういう意味で語ったのか?
ひとつだけ確かなのは、その不思議な「要の石」によって救われた、ということだ。
私はあなたに感謝します。あなたが私に答え、私の救いとなられたからです。(21)
主は、私の救いであり、私の味方だ。
このことを、今日新しく心に刻もう。
あなたは私の神。私はあなたに感謝します。あなたは私の神。私はあなたをあがめます。(28)