神が味方である
私は知っています。神が味方であることを。(詩篇56:9)
ときどき、古い記憶の中の、ある“事件”を思い出す。
それは、わたしが幼稚園の年長クラスに上がった日のこと。
悪ガキのF君が、わたしの顔に向かって回し蹴りの真似事をした。
F君はふざけ半分だったろうし、実際に蹴られたわけでもなかったのだが、驚いたわたしは泣き出してしまった。
後にも先にも、友達に“泣かされた”のは、この一度だけだ。
この事件を思い出すたびに思う。
子どもが泣くのは、誰かからの拒絶や否定が耐えられないからではないかと。
そして、その辛さや悲しさは、大人になっても基本的に変わらないのではないか。
「人を恐れる」ことの奥底に、そのような心理があるのではないかと、私は思う。
人が怖いのではなく、人から拒絶されることが怖いのだ。
ダビデは56篇で、同じ言葉をくり返している。
神に信頼し、私は何も恐れません。肉なる者が私に何をなし得るでしょう。(4)
神に信頼し、私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。(11)
究極、人は、人を恐れるか、神を恐れるかのどちらかだ。
イエスさまは、言われた。
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)
人の拒絶を恐れるのではなく、神の拒絶を恐れよ、と教えられたのだ。
とはいえ、生身の弱い人間だ。
やはり恐れに囚われそうにもなる。
心に恐れを覚える日、私はあなたに信頼します。(3)
ダビデはいつも、自分に言い聞かせるかのように、これらの言葉を語っている。
私は知っています。神が味方であることを。(9)
「神が味方である」、これ以上に力強い真理があるだろうか。
わたしは弱くとも、「神が味方である」。
敵は横柄に勝ち誇ろうとも、「神が味方である」。
世がどんなに恐ろしく見えようとも、「神が味方である」。
このことを心に刻んで、今日の日を歩もう。
まことに、あなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私が、いのちの光のうちに、神の御前に歩むために。(13)