しもべたちの目が主人の手に向けられ
まことに、しもべたちの目が主人の手に向けられ、仕える女の目が女主人の手に向けられるように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。(詩篇123:2)
123篇は、次のように始まる。
あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。(1)
そのあとに、冒頭の2節がつづく。
わたしはずっと、2節のみことばを、しもべが主人の指図を逃さないように注視している姿を示したものととらえていた。
しかし、よく読むと、もっと大きな意味があることに気づいた。
主が私たちをあわれんでくださるまで。(2)
彼(彼女)が主人の手を見つめているのは、指示ではなく、あわれみを待ち望んでいるからなのだ。
主人からの報い、ねぎらい、「よくやった、良い忠実なしもべだ」との言葉を。
そこにあるのは、主人への信頼と期待だ。
3~4節では、さらに違う意味合いが加わる。
あわれんでください、主よ、あわれんでください。私たちは蔑みでいっぱいです。私たちのたましいは、安逸を貪る者たちの嘲りと、高ぶる者たちの蔑みでいっぱいです。(3-4)
彼らは、「安逸を貪る者たち」「高ぶる者たち」から、嘲られ、蔑まれていた。
それに対し、嘲り返すのではなく、主に目を向け、主のあわれみを乞うている。
この詩篇は、リビングバイブルがわかりやすい。
私は天の王座におられる神を見上げます。
いつ主があわれんでくださるかと見つめています。
ちょうど、召使が主人の様子をうかがい、何げない表情にさえ気を配るのと同じように。
主よ、お願いですから、あわれんでください。
私たちはさんざん、金持ちや高慢な者たちにさげすまれ、あざけられてきたのです。(リビングバイブル)
「安逸を貪る者たち」や「高ぶる者たち」の仲間にならず、またののしり返さず、忍耐して主のあわれみを待ち望むしもべとなろう。
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。(ローマ12:11)