みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

家の中を、全き心で

私は、全き道に心を留めます。いつあなたは、私のところに来てくださいますか。私は家の中を、全き心で行き来します。(詩篇101:2)

 

101篇は、「全き道を歩む者」(6)の詩だ。

 

恵みとさばきを、私は歌います。主よ、あなたにほめ歌を歌います。(1)

 

「恵み」はやさしい響きがあり、「さばき」は厳しく感じる。

しかし、詩人はいずれをも「歌います」。

主にあって全き道を歩もうとする者にとっては、「恵み」も「さばき」も同じように素晴らしい。

 

私は、全き道に心を留めます。いつあなたは、私のところに来てくださいますか。私は家の中を、全き心で行き来します。(2)

 

全き道を歩もうとする者は、主人の帰りを心待ちにしている。

「よくやった、良い忠実なしもべだ」の言葉を励みに。

 

「家の中」は、もっとも油断しやすく、心がゆるむ場所だ。

そこでこそ、「全き心」を保ちたい。

 

陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします。高ぶる目とおごる心に、耐えることはできません。(5)

 

わたしはここに、「私の中の」という一語を加える必要を感じる。

(私の中の)陰で自分の隣人をそしる者を、私は滅ぼします、(私の中の)高ぶる目とおごる心に、耐えることはできません。

人をそしるとき、わたしは自分でも気づかないほど醜い「高ぶる目とおごる心」になっていることだろう。

 

私の目は、この国の忠実な人たちに注がれます。彼らが私とともに住むために。全き道を歩む者、その人は私に仕えます。(6)

 

ここでの「私」は、イエスさまに置き換えることができる。

エスさまの目は、神の国の忠実な人たちに注がれ、彼らとともに住んでくださる。

彼らは、イエスさまに仕える。

 

次節も同様だ。

 

欺きを行う者は、私の家の中に住むことはなく、偽りを語る者は、私の目の前に、堅く立つことはありません。(7)

 

わたしが天に帰る日が早いか、主が迎えに来られる日が早いか、それはわからない。

いずれにせよ、主の道を「全き心」で歩み続ける日々でありたい。

 

朝ごとに、私は国の中の悪しき者を、ことごとく滅ぼし、主の都から、不法を行う者を、ことごとく断ち切ります。(8)

 

 

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