苦しみをともに
神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。(2テモテ1:7-8)
きょうから『テモテへの第二の手紙』だ。
例によって、“ザッと読み”してみる。
あらためて浮かび上がるのは、愛弟子テモテを励まそうとするパウロの心だ。
この手紙は、13通あるパウロの手紙のなかで、一番最後に書かれたものだそうだ。
地上生涯を終える前に、愛するテモテを力づけようとするパウロの思いがあふれている。
そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。(6)
霊的な炎は、燃え上がったかと思えば、またパチパチと小さくなったりする。
何度でも燃え立たせる必要がある。
「主を証しすることを恥じる」可能性が、テモテですらあった。
主と出合った頃は、わたしも誰彼となくイエスさまの話をした。
「信仰とは大したもんですね」と笑われたりもしたが、そんなことはおかまいなしだった。
ところが、年数が経つにつれ、“加減”をするようになり、しだいに「主を証しすること」が無くなっていった。
再び燃え立たせる必要がある。
この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。そのために、私はこのような苦しみにあっています。(11-12)
このときパウロがいたのは、教会の執務室ではなく獄中だ。
迫害され、さげすまれ、暴行暴言を浴びる生き方だった。
悪魔と悪霊どもが総力をあげてパウロを潰そうとしたに違いないのだから、その苦しみは想像を絶するものだったろう。
それでもパウロは、主を信頼し続け、戦い抜いた。
パウロの真似をすることは、とてもできない。
しかし、「臆病の霊」にとらわれてはいないか、福音を恥としてはいないか、いま一度吟味し、パウロに少しでも倣いたいと思う。
しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(12)