満ち足りる心を伴う敬虔
しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。(1テモテ6:6)
パウロは6章で、ある「病気」について書いた。
違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと、敬虔にかなう教えに同意しない者がいるなら、その人は高慢になっていて、何一つ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争いが生じます。(3-4)
「議論やことばの争いをする病気」がそれだ。
そして、パウロの時代も、いまも、この病気は教会の中で猛威を奮っている。
その結ぶ実は、「ねたみ、争い、ののしり、邪推、絶え間ない言い争い」で、何一つ良いことはない。
新型コロナウイルスに対するのと同じくらいに、この病気を警戒しているだろうか?
これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じるのです。(5)
ウイルスは乾燥や人混みで広がるが、こちらの病は「敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じる」とある。
なんとタチの悪いことだろう。
しかし、一見「信仰的」なことで自分を喜ばせようとすることは、いつの間にか陥りがちではないだろうか。
人からの称賛、特定の地位、権威権力を得ようとするのは、「敬虔」を装うことがあるだけに恐ろしい。
パウロは、「満ち足りる心を伴う敬虔」こそ、ほんとうの「敬虔」だとした。
人の上に立とうとしたり、人からの栄誉を求めているなら、どんなに敬虔そうに見えても満ち足りてはいない。
私たちは、何もこの世に持って来なかったし、また、何かを持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。(7-8)
ほんとうにその通りだ。
地上から天国への引越しには、大型トラックは必要ない。
からだすら、持っていけないのだ。
そう考えると、あれもこれも欲しがることが、なんだか馬鹿らしくなってくる。
「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」(マタイ6:19-20)
天に宝を蓄えよう。
どんな宝?
パウロが書いてくれている。
しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。(11)