みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

あなたの信仰があなたを救ったのです

するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。(マルコ10:52)

 

目の見えない人が、イエスさまによって見えるようにされた記事だ。

 

この「あなたの信仰があなたを救ったのです」という言葉は、イエスさまが、癒された人に対してしばしば使われた。

したがって、わたしはどこかで、イエスさまの“慣用句”的な言葉として、強く意識することなく受けとめていた。

 

しかし、あらためてこの言葉に注目してみると、すごいことを言っておられることに気づかされる。

「救った」のは、もちろんイエスさまだ。

にもかかわらず、あえて「あなたの信仰が」救ったと、言っておられる。

 

マルコ6章でもみたように、イエスさまはどんなに栄光を現わしたくても、人々の「信仰」がなければ、みわざを行なうことができない。

 

それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。イエスは彼らの不信仰に驚かれた。(マルコ6:5-6)

 

エスさまの奇跡を体験した人たちはみな、イエスさまに対し絶大な「信仰」を寄せていた。

エスさまなら、できる。

エスさまなら、あわれんでくださる。

エスさまなら、わかってくださる。

エスさまなら、こたえてくださる。

彼らはみな、「もうイエスさましかいない」という切実な思いを持ってやって来た。

 

反対に、どこか余裕をもって来た人は、たとえイエスさまに求めたとしても、何も受けることはなかった。

 

エスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」(17)

 

エスさまとのやり取りを終えて、彼はどうしたか。

 

すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。(22)

 

彼は、イエスさまの前にひざまずき、「尋ねた」。

冒頭のいやされた人について、聖書はこう記す。

 

・・・彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。(48)

 

二人の態度は、とても対照的だ。

福音書をみると、イエスさまに対して“質問”した人たちは、みわざを体験していない。

みわざを体験したのはつねに、イエスさまに“叫んだ”人たちだ。

 

エスさまのおっしゃる「信仰」とは、何だろう。

 

エスが、「わたしにそんなことができると信じるのか。」と言われると、彼らは「そうです。主よ。」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」と言われた。すると、彼らの目があいた。(マタイ9:28-30)

 

 

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