何でもあなたがたのほしいものを
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)
イエスさまは、「何でもほしいものを求めよ」とおっしゃった。
英語訳では、「ask whatever you wish」だ。
これは、そうしたらどうかという提案でもなければ、そうしてもよいという許可でもない。
主の命令であり、切なる願いだ。
それによって、わたしたちが喜びに満たされるだけでなく、父のご栄光につながると、主はつづけられた。
「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(8)
全能の神がわたしたち人間の祈りを必要とされるとは、なんと不思議なことだろう。
「何でもほしいものを」というみことばには、ためらいさえ覚えてしまうが、大胆に祈れということか。
ただし、それには条件がある。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」。
ぶどうの木と枝がひとつのいのちでつながり不可分であるように、主イエスとわたしたちがひとつになっていること。
そうであるなら、「何でもほしいものを求めよ」と言われている。
主とひとつになっているならば、わたしたちの祈りはおのずと整えられる。
そしてそのような人の祈りを、主は待ち望んでおられる。
そんな祈り人になりたい。
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌下16:9)
その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」(列王記上3:5)