ただ一つのことだけ知っています。
「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)
ヨハネ伝9章は、イエスさまによって目をあけられた盲人と、彼を尋問するパリサイ人たちとの問答で占められている。
ここに示されているのは、「見える」とはどういうことか、ということだ。
イエスが彼を癒したのが安息日であったことを問題視し、しつこく質問攻めにするパリサイ人たち。
それに対して、救われた人の言葉は、どこまでも率直で、シンプルだ。
自分を癒した方がだれかは知らないけど、ただ一つ、見えるようになったことだけは確かだと、まっすぐに答えつづける。
いら立つパリサイ人たちは、「神に栄光を帰しなさい」と言いながら、イエスを「罪人」と断定し、盲人をののしり、「罪の中に生まれ」た者と断罪して追放する。
このパリサイ人たちに対し、イエスさまは、こう告げられた。
「あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(41)
聖書の知識、律法に関するさまざまな知識なら、圧倒的にパリサイ人たちのほうが持っていた。
にもかかわらず、神ご自身を知っていたのは盲人のほうだった。
「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(33)
盲人とパリサイ人たちの大きな違い、それは神への賛美があるかどうかだ。
盲人は「私は盲目であったのに、今は見える」(25)ことを心から喜び、神を賛美し、イエスを拝した(38)。
パリサイ人たちは、私たちは見えていると自認しながら、他を見下し、断罪することに忙しかった。
ここで思う。
わたしたちキリスト者も、ともすればこのパリサイ人のあり方に落ちてしまいやすい、と。
癒された盲人の、率直な姿を見習いたい。
自分が救われたこと、霊の目をあけられたこと、この「ただ一つのこと」を、まっすぐに喜ぶ者でありたい。
確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。(2コリント5:7)