みつばさのかげ

一日一章、聖書のみことばから感動したこと、考えさせられたことなどを綴ります。

生きている小鳥を野に放す

「それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。」(レビ記14:7)

 

14章は、「ツァラアトに冒された者がきよめられるときのおしえ」(1)だ。

 

「祭司が調べて、もしツァラアトに冒された者の、その患部が治っているなら、祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じる。」(3-4)

 

ここで使われるのは、二羽の小鳥だ。

 

「祭司は、その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺すように命じる。そして、生きている小鳥を、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプとともに取り、それらをその生きている小鳥と一緒に、新鮮な水の上で殺された小鳥の血の中に浸す。」(5-6)

 

一羽は殺され、その血は水と混ぜられる。

もう一羽は、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに、その血の中に浸される。

 

「それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。」(7)

 

血に浸された小鳥は、その後放たれる。

 

とても印象的な儀式だ。

ここには、病にあった人の死と復活、古い人への決別と、新しい人としての歩みが表現されている。

 

わたしたちもまた、イエスさまの血と水に浸され、古き人に死に、新しき人によみがえる。

そして、神の御手の大空へと飛び立つ。

 

もし放たれた小鳥が飛び立とうとせず、まるで飛ぶことを忘れたかのように、その辺りをうろうろするだけだったら、どうだろう。

癒やされた人は、いい気がしなかったに違いない。

 

罪赦され、新しいいのちをいただいた者として、飛び立とう。

 

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。(ガラテヤ2:19-20)

 

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